小川利久氏インタビュー 介護を教育プラットフォームで支えるオピニオンリーダー

最終更新日:2022年3月7日

今回は株式会社エイジングサポート代表取締役の小川利久(ニックネーム=りきゅう)氏にインタビューをさせて頂きました。介護の業界では知らない方がいないぐらいの著名人です。

 

エイトドアの下田静香氏から凄い方がいるので取材をお願いしてみたらと勧めて頂きました。オファをしたところ、快くインタビューを受けて頂きました。

 

お話は非常に濃いものとなりました。一気に読むのは大変かもしれませんが、介護やヘルスケアについて示唆に富む内容となっています。

 

ぜひ、ご覧くださいね。

 

青森県十和田市から新潟大学へ進学されましたが、きっかけや思いをお聞かせください。

正直言うと、最初は北海道大学を狙っていました。そのため、札幌にある予備校で理類のコースに在籍し、そのまま北海道大学を受験しようと思っていたのですが、合格見込みが低かったので二浪は避けたいと思い、新潟大学を受験しました。

 

大きな目的などはなかったのですが、ネズミが苦手だったので植物系、山が良いかなと言う軽い気持ちで農学部を希望していました。たまたま、青森時代の同級生が日本歯科大学の新潟校にいたことも後押しとなりました。

 

ただ、小さい頃から新渡戸稲造の大きな影響を受けていることは確かですね。「少年よ、大志を抱け」ではないですが、北海道大学の農学部に憧れていました。また、三浦綾子の愛読者で、「氷点」の愛読者だったこともあり、北海道大学を目指していました。

 

当時、人前で話をすることが嫌だったことも農学部選択に影響を与えているかもしれません。特に、青森県人は、若い頃から人の前で話すのが好きと言う人はあまりいないのではないでしょうか。

 

そうは言っても、サラリーマンになると人前で話さざるを得ません。今でも、決して好きではありませんが、人前で話すとどうやら、それが好きだと思われているようですね。人にモノを教える、いわゆる教育は嫌いではないのですが。

 

小川氏講演の様子です。

新潟大学での学生生活はいかがでしたか。 

楽しかったですね。演習林が佐渡島にあったので、夏と冬は必ずそこに渡らなくてはなりません。海岸線沿いにある森林で、測量や野うさぎを追いかける毎日を過ごしていました。

 

決して、北海道を諦めていたわけではなかったところに、新潟大学出身で北海道林業試験場で長く働いていた方が助教授で着任されました。その先生は、自分の教え子を北海道の林業試験場に送りたいという気持ちを持たれていて、私と意気投合しました。そのような縁もあり、北海道の美唄にある林業試験場へ行き、トドマツ人工林をテーマに研究をしました。その流れで、道庁を受けたのですが、合格せずに今に至っています。

 

大学を卒業された後は、どちらに就職されたのでしょうか。 

実を言うと、最初に就職したのは西武百貨店です。友人はほぼ公務員となって地元に帰りましたが。

 

当時は不況の時代だったので、農学部卒を採用してくれる会社が少なかったのですが、学部は問いませんという垢抜けた会社が西武百貨店でした。ちょうど、時間が空いたので試しに受験してみたら、すごい倍率をくぐり抜けて通ってしまったと言うのが本当のところです。

 

面接後、ボールやレオなどが描かれている4種類あるカードのうち一枚を渡されるのですが、レオカードを渡されたらその日のうちに役員面接まで進む仕掛けだったようで、私はレオカードを渡され次の面接へ進んでいきました。きっと、面接に来た学生は慶應大学や早稲田大学、青山学院大学など東京の私大ばかりだった中で、垢抜けない新潟大学の農学部生が受けにきたのが印象的で変わり者に見えたのだと思います。

 

全国統一の新人研修の後に配属となるのですが、私は最も多く配属される池袋店でした。一番仲の良かった同期は、経営層の秘書になっていましたね。

 

西武百貨店にはどのくらいの期間いらっしゃったのですか。

そこは、すぐ辞めてしまいました。なぜかというと、その後は法務省に行ったのです。ちょうど、国家公務員選考採用試験があり、受験したところ受かったからです。しかし、研修期間で退職してしまいました。

 

法務省は、成績一番で通ったと言う説明を受け、「どのような業務をするのですか」と聞いたところ、「外交的仕事」と言われました。ですが、色々あって自分には向いていないと思い、結局そこも辞めてしまいました。そして、東京の友達の家で、3ヶ月ほど居候をしていました。その間、就職活動をしましたが、どこも採用してくれなかったですね。

 

その理由として、なぜ当時の人気企業・西武やめたのというのがありました。ですが、これは法務省の試験に合格したことが後になってわかったから、という理由が成り立ちます。しかし、国家公務員を辞めたとなると、民間企業はどこもダメですね。受けていた長谷工もおそらく最初は落ちていたと思うのですが、定員が確保できなかったのか、人事部長から「ちょっと話がある」と直接、電話をもらって採用になりました。

 

おそらく、学校を卒業後すぐに長谷工へ入っていたら短期間で辞めていたと思います。追い詰められて、もう辞められないと思っていたので17年間も続いたのではないでしょうか。

 

介護に携わるようになったきっかけについて教えてください。

介護の仕事に関わるようになったのは、ちょうど、2000年に介護保険を作ると国が政令を出して世の中が色めきだった1989年ですね。高齢者保健福祉推進十か年戦略、いわゆるゴールドプランが始まった年でもありますが、この時、銀行や不動産、建設、保険会社が一気に介護ビジネスに参入しました。いわゆるシルバービジネス幕開けの第一期生です。そこから32年経ちますが、自分の意志で介護業界に入ったのではなく、長谷工の人事異動がきっかけでした。

 

当時、バブルの少し手前だったのですが、長谷工がリゾート、ホテル事業、シルバービジネス、家具の新規事業を4つ立ち上げ、各部署から企画をする人を集めていました。私が当時、マンションの販売企画、マーケティングなどをしていたこともありますし、本当に、たまたまリゾートではなくシルバービジネスの担当になっただけのことです。

 

Youtubeチャンネルで活発にセミナーを配信されています。

介護に関わってみて、いかがでしたか?

当時、誰一人として介護ビジネスのことはわからない時代でした。どこに行ったら教えてくれるのか、会社の中で知っている人は一人もいないのです。常に、提案事業は、社長プレゼンでした。

 

新規事業なので、それが良い面もあれば会社の中での派閥争いに巻き込まれることもありました。世の中の変化が大きい時代だったので、大変でしたね。私も必死で勉強するので、何をプレゼンしようが私より詳しい人が社内にいなかったですね。また、人に対するホスピタリティがあるかどうかによって、介護というのは受け止め方がかなり違うとも感じていました。

 

当時は、認知症や人の死を語ることは介護ビジネスではない、と戒められたことも少なくありません。学んで深めれば深めるほど、そうじゃないだろうと分かってくる世界なのですが。社会ニーズに対応するために介護ビジネスに参入していますし、高齢者向けのマンション作るのだから、その一番の核心を見ずに、ただただ高齢者のための住宅を供給したら大変なことになりますよと伝えると、理解はしてくれるけど、ビジネスとしては受け入れ難いということになる訳です。

一番分かってくれたのは社長でした。経営者としての覚悟をお持ちだったと思います。

 

それまでの長谷工のマンション事業モデルは、売ったら終わりでした。非常に手離れの良い仕事ですね。ただし、老人ホームビジネスは建物が完成してから始まります。ホテルも然りですね。箱モノを作っていた人間が運営を始めるわけなので、会社のビジネススタイルも時代ニーズへ対応する変わり目だったのでしょうね。

 

長谷工では、実際にどのようなお仕事をされていたのですか。

兵庫県に、老人ホームを作るプロジェクトで2年くらい滞在していました。しかし、有料老人ホームで建築確認を取得した矢先、阪神淡路大震災が起こったのです。計画地が活断層上にあったことだったらしく、地域一帯が壊滅状態でした。建設に際して、ローラー作戦として訪問調査などによって得た、神戸在住の3,000名のリストがありましたが、まずは生きているかどうかなど被災状況の調査をずっとしていました。結果として、そのプロジェクトは中止、白紙に戻りました。

 

その後は、どのような仕事に従事されたのですか。

東京に戻り、マンション以外の建設営業と開発協議に関わっていました。役所へ毎日行き、都市計画法の協議をする仕事ですね。これを2年間しました。

 

今、思えば、毎日役所へ行って徹底的に調べ、設計担当に引き継ぐ仕事は介護の仕事に役立っています。老人ホームというのは土地と建物が必要なので、建築不動産がわかるかどうかが非常に重要です。開発許認可から高齢者に適した住環境については建設会社の人間より詳しい、さらに補助金申請もスムーズに進みました。自分で調べて考えてから役所協議の場につくことができるというのは有利ですよね。

 

土地活用としてはマンションが良いけれども、水道がない、道路付けが悪いなど開発や建設の諸条件が悪すぎるということもあります。開発回避要件などこちらも調べる能力があるので土地の持っている瑕疵条件などが判断できますし、許認可申請の時にこれだけの期間がかかるなど、協議手順を組み立てて推進することは専門領域だったので、自分が判断してプロジェクトを推進することができました。

 

介護施設の施設長をされていた時期もあったと伺いました。 

長谷工を1998年に退職して、介護経営コンサルタントとして独立をしました。そして、小さなシンクタンクに身を寄せました。

 

介護保険が始まる前のシルバービジネスの余韻が残っていた時期なので、民間企業のシルバービジネスのコンサルをしていたのです。直接、依頼を受けたのはJR東日本グループの不動産部門の会社ですね。駅近にある遊休地なのですが、駅ビルの再利用ということでそこに介護事業が入れられないかどうかを検討しました。また、その延長上として、駅構内物販調査や駅ビルの顧客マーケティング調査もグループインタビュー方式で宇都宮駅や立川駅で行いました。

 

一番面白かったのは、東京駅のお土産物の売れ行き調査でした。駅構内におけるお土産売上低迷の原因を購買心理と売り方のミスマッチを調べました。

主なコンサルは、「JRの介護ビジネスへの参入」をテーマに、赤羽駅と新宿駅、中野駅に併設したJ R遊休地の再活用計画でした。実際に収支を組んで、介護ビジネスへ参入するのであればこういう事業だという事業企画提案を経営層、駅長さんたち約100人に対してプレゼンをしたこともありました。
JR
は規律を重んじる風土があり、プレゼンの際にも駅長さんたちが真剣に聞いてくれたことが嬉しかったですね。

 

ただ、私たちは、安易に利益だけを求めるならば、参入しない方が良いという厳しい提案となりました。

 

例えば、ここに駅構内にお店を作ったら家賃1万円になるとします。でも、介護ビジネスをした場合、家賃1万円も払えないということがわかるわけです。まだ介護保険がなかった時代ですから条件設定も事例が多くはありません。だったら別に、老人ホームを作らないで収益性の高い駐車場やスパを作った方が良いという話になります。当時、まだ国鉄赤字再生の色合いが強い時期で、収益率の点から介護の事業化実現には至りませんでした。

 

収支は未来予測です。当時はまだ人件費と家賃が4%程度上がるような収支を平気で組んでいました。金利が住宅金融公庫で5.5%という時代です。右肩上がりの条件を変動値で入れると結構、良い経営収支が組めてしまうのです。ちょうどバブルの時代の影響も受け、その結果、介護事業に参入した建築・不動産、保険会社の中には破綻した企業が多かったと思います。

 

かつては、介護を教えてくれる人がかなり少ない時代だったので、建設会社を中心に10数社がお金を出し合って自ら勉強会を開催しました。講師探しも介護の周辺分野が多く、まさに介護ビジネスの幕開けでした。

 

その勉強会を通じて、スウェーデン王立工科大学の留学から帰国したばかりの建築家・外山義先生とお会いしました。その時は、国立医療・病院管理研究所(現・国立保健医療科学院)にいらっしゃいましたが、この人から学ぼうと何度も通いました。その後、外山先生は今の厚生労働省から東北大学の助教授になり、さらに京都大学大学院の教授となられました。

 

外山先生が京都大学へ移られる際に、電話もらったことがあります。私は、当時はコンサルティングのようなことをしていたのですが、2000年、介護保険を機に新しい形態の老人ホームを作るので、手伝って欲しいと言われたのです。

 

当時は埼玉県に住んでいましたが、まだ子供が小さく悩んだのですが、兵庫県へ単身赴任する決意をしました。そして、外山先生の紹介先である社会福祉法人に経営コンサルとして入りました。そこで立ち上がったのが、今の認知症高齢者グループホーム(認知症高齢者共同生活介護)事業と全室個室ユニット型特別養護老人ホームのモデル事業です。新たに創設された認知症高齢者グループホームの方が先に制度化されました。

 

特養において、4人部屋から個室へ向かう大きな転換が始まりました。身体介護から認知症ケアへ、個別ケアをテーマに全室個室ユニット型特養のモデル的事業のスタートです。制度を変えるために必要なデータを京都大学で取ることとなり施設を介入研究の場として提供していきました。制度変更への3年間の試行を経て、2003年に制度化されました。私はコンサルで入ったその法人から要望を受け、法人事務局長と特養の施設長併任者として介護保険制度黎明期に向き合っていきました。

 

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ブータンに視察に行かれた報告会

施設長として就任された時のことを教えてください。

たくさんの新しい取り組みへのチャレンジは、全国から視察者が殺到する現象を作り出していきました。

認知症高齢者グループホームとユニット型特養は、外山先生の設計監修のもと、当時日本で最もケアが良いと言われたその社会福祉法人で始まりました。

介護保険前は「措置制度」と言われ、行政が利用者へ施設を充てがっていました。介護施設は自ら利用する人を募集し、選んでいただくという経営の基本概念がなく、運営だけで何とかなっていた時代でした。しかし、介護保険の中では「介護の市場化」が唱えられ、介護経営の重要性に意識がむき始めていったのです。

 

その時に、外山先生から「小川さんは介護経営をやりなさい」とアドバイスをいただきました。

私は経営の専門家ではなく、長谷工でマンション販売と販売企画から介護ビジネスの事業企画をしてきた一介の企画マンでしかなかったのです。大丈夫なのかと不安でした。しかし、私なりに介護事業を体系化し、実務を理論化していくことをしなければならないと思っていました。調査をして分かった過去と現在、収支を組んで見えてきた未来、という部分ですね。調査は京都大学が行いましたが、私たちがその結果を受け法人経営、施設運営へ生かすことをやっていったのです。

 

職員の教育体制や利用者さんとの契約、それらはが施設側で組み立てる必要があったので、私が中に入って整理をしました。そして、それをもとに大学が論文を出す、担当の行政サイドが国へ提出、議論を経て、国会で承認、制度化に至る、そんな経緯だったと思います。

そういう時代の変わり目の中に現場側の施設長として仕事をする機会を与えられた訳です。

 

介護に携わられていかがでしたか。 

私は、長谷工にいたので完全にビジネス思考でした。でも、今は逆ですね。社会福祉法人に20年もいると、「儲ける」という話が出来難くなります。事実、社会福祉法人会計における福祉事業には利益という概念はありません。収入から経費を差し引いて残った事業活動収支差額金は繰越金であり、勝手に使えません。翌年度以降の経費として繰り越すだけです。それを正しく理解した経営をしていかないと経営基盤が崩れていく原因となってしまいます。安易に「利益」という言い方をすると反発されてしまいます。

 

社会福祉法人内で、私が使った言葉は、「経営基盤の安定化」です。地域貢献のために、社会福祉事業の継続のために少しずつお金を残す、そのために収入をあげ、経費を下げましょうという、言い方です。

 

ユニット型特養のモデル的事業が行われたのは兵庫県尼崎市の社会福祉法人でした。利用料設定など役所協議を行なっている中で行政側から「社会福祉法人に不動産屋がいる」と揶揄されたことがあります。その評価を気にした当時の理事長からは「小川さん、不動産屋の匂いを消してください」と言われてしまいました。今となっては笑い話ですが、自分に染み付いていたイメージに結構悩んだものです。

 

こんなこともありました。長谷工時代に特別養護老人ホームに研修で入らせてもらいたいと四苦八苦しました。ご縁もなかったこともあるのですが、自力で受け入れてくれる社会福祉法人を見つけることができませんでした。自分たちからお願いしても門前払い、「お金儲けの人たちに教えることはない」という理由が主でした。結局、地位のある福祉行政の方のルートで「小川さんはお金儲けではなく、真面目に日本の未来を考えている人だから・・・」と口添えをいただき特養研修に辿り着きました。

 

現在は、どのようなお仕事されているのでしょうか。 

今、介護の選び方という講座をしています。例えば、特別養護老人ホームと老人保健施設と有料老人ホームって違い、わからないですよね。介護士もこれらの使い分けをしっかりと説明できる人は少ないのではないでしょうか。

 

これらはそもそもベースとなっている法律が違います。法律が異なれば目的も対象者も条件も異なってきます。介護保険の中においてこれらの施設を介護報酬が使える施設として指定したわけです。介護保険が複雑化する所以です。

 

また、老人ホームは「入所」で居室利用料は「居住費」と言います。サービス付き高齢者向け住宅(サ高住)においては「入居:」と言い、「家賃」となります。この違いはわかりますか。一番の違いは、「施設」か「住宅」かということですね。サ高住は「高齢者住まい法」であり管轄は国土交通省、老人ホームは「老人福祉法」、管轄は厚生労働省、老人保健施設は「老人保健法」から「高齢者の医療の確保に関する法律」へ改正されていきました。複雑ですよね。

 

兵庫県の社会福祉法人は、淡路阪神大震災時に行政へケア付き仮設住宅を提案し支援していました。4月にオープン予定の芦屋市内の特養が1月にあった地震によって建物が傾き使えなくなったため40人の介護職員をケア付き仮設住宅へ回すことにしたのです。

 

これが災害時のモデルとなり、新潟中部地震、東日本大震災時においても、ケア付き仮設住宅が作られることとなりました。老人ホームと異なることは障害種別を超えたコミュニティを作り運営したこと。震災によって新たな支え合いのカタチが生まれたわけです。

 

福祉と災害は非常に密接な関係があります。競争ではなく、協調する仕事。災害が起きた時からではなく、普段から支え合いの連携をとっておくことは、そのまま災害時に機能することとなります。このように福祉が充実したまちは災害にも強いまちとなっていくわけです。

 

介護の視点から見て、いまの医療はどう思われますか。

今ある介護保険の中の加算は、全てもともと医療にあったものばかりです。喀痰吸引も医療行為ですし、昔は認知症高齢者も人里離れた精神病等に入院し、日常から隔離されていたわけです。

 

もともと、介護は生活の支援です。

それを担ってきたのが長い期間、医療でした。特養は、古い病院を修復して多床室から始まりました。

 

かつて、生活行為だったことの一つとして看取りがあります。私が提案していることは、適切な看取りができる老人ホームをめざすことです。私は経営面から看取りの指導をし、看護や介護士の指導は共に看取りを実践してきた看護師にお願いしています。特養の看取りをはじめたのが兵庫県の施設、東京でそれを実践し職員たちと築き上げてきたもう一つの看取りのカタチを作り上げました。介護報酬上の看取り加算介護がどうあるべきか、厚生労働省にヒアリングを受け私たちの実践を説明させていただき、結構介護報酬改定に取り入れていただきました。

 

病院は治療の場です。年をとって回復の見込みがなければ生活の場に戻したいというのが私たちの主張です。病院は生活を犠牲にして治療に専念する場です。特に高齢者の場合、長期入院は日常生活行為力が衰え、生きる力を萎ませてしまいかねません。

 

今は、胃ろうを選ぶ人はだいぶ減りましたよね。人は40代をピークに食べのものを飲み込む力が低下していきます。周りにむせている高齢者がいませんか?高齢者の死因の3位が肺炎です。食べ物が食道から胃ではなく、気管に流れ肺に入ってしまい炎症が起きてしまう、これが誤嚥性肺炎と言われていることです。

80代になるととさらに食べることが難しくなってきます。体の衰えは喉にも現れてきます。

それを、病院に行ったらどうなるでしょう?胃に穴を開け直接栄養を補給することが胃ろうです。しかし、自分の唾さえ飲み込むことが困難になってしまう人もいます。その時は口に中に溜まった唾液を吸引することになります。このような一連の支援は医療行為の喀痰吸引ですが、一定の条件下で介護士ができるようになりました。回復しないのであれば病院で治療を受けない、この選択が介護報酬における看取り介護のスタートです。そうは言っても、痛みを取らなければならないときは医療の力を借ります。看取りとは医療がゼロになるわけではなく、生活を支える範囲の医療と連携していきます。これができるかどうかそれが老人ホームの介護士や看護師の能力であり、老人ホームの価値の一つだと思います。看取りはやっているという介護施設が増えてきたことは喜ばしいことですが単なる「死の支援」にとどまっているところがまだまだ多いと感じています。家族と一緒に多職種協働&連携によって高齢者のいのちをつなぐ看取りの体制を整えたか、整えていないかによって随分差が出ますね。

 

今後、どのようなことに力を入れていかれるのでしょうか。

3つあり、一つはオンライン上で介護の学校を作ったので、これを軌道に載せることです。もともと、オンライン上、YouTubeで研修のプログラムを作りたいと思ってきました。一つの施設のために作った動画でも、複数の施設が視聴できるようにします。教育情報を共有しお互いにどこでも見ることができる動画は有効なコンテンツです。

 

もう一つが、動画の配信プラットフォームの開発です。単なるZoomやセミナーだけではなく、その後動画オンデマンド教材として配信できる仕組みですね。リモートワークの有効策として働き方改革へも貢献できるようにしていきたいです。まずは自分の動画から配信を始めていこうかと思っています。

 

介護情報のコンテンツ提供者はまず20名くらいからはじめ、3年くらいで100人のコンテンツ提供者を集めたいですね。その情報が欲しい人たちに配信をするプラットフォームを作ります。例えば、こういう話ができるという人に対して10コンテンツ動画を作ってもらい、動画配信するのです。動画に加えてテキスト、音声、アニメ、OJT、この5つの組み合わせからエイジングと介護の学校エイジング・サポート・アカデミーを仕上げていこうと思います。

 

介護現場の2割程度の仕事をオンライン活用でリモートワークへシフトしていくことができれば介護経営を側面から支えることができます。事務の給与計算や請求業務のバックオフィス化も視野に入れています。

さらに管理栄養士の献立作成、レシピー開発もバックオフィス化することによって管理栄養士は入居者の個別の栄養マネジメント業務へもっと時間を割くことができます。

 

加えて、今、実験しているのが認知症のリモートによるコミュニケーションケアです。例えば、トイレと言われても近くにいないとトイレ誘導ができないわけですが、離れていてもお話することはできます。現場の若い介護職員への認知症ケアの教育にも有効策となります。30分でも話しをすることができれば、現場の仕事を遠隔からサポートできるようになります。

 

機能訓練の一部もそうです。「はい、右手を上げてください」「食事の前に歌って、ボイストレーニングをして嚥下の体操をしましょう」というのは既にやっている仲間がいますので、実務として広がる可能性が高いと思っています。

 

介護人材の人手不足が慢性化していますね。介護経営コンサルの大きな課題です。そこで仲間と共に別会社を設立して、外国人介護人材の受け入れ業務も始めました。在留資格は特定技能対象です。自ら設立するつもりはなかったのですが、介護経営のプロが介入する新しいモデルを作りたくなりました。

 

何をするのかというと、私たちが経営介入している施設を中心に外国人介護人材を紹介していきます。外国人教育の他に、教育を担当する日本側の介護職員教育の仕組みづくりを提供していきます。最初は結構、混乱しトラブルがあると思っています。事故が起きた、失踪した、給料の不払いなどですね。それを私たちがきちんと経営コンサルを併用しつつ日本人、外国人の双方を育てていきたいと思います。介護経営のプロが行う外国人登録支援機関として社会へ貢献していきます。

 

おそらく、彼らは3年後、自分の国に帰ることとなります。徐々に彼らの国も経済を発展させながら健康と長生きを求め高齢化が始まっていきます。今度は、私たちが日本の介護を支えてくれた外国人の仲間たちをサポートする側に回ります。

 

そうやって、アジアの高齢化を支えて行く仕組みを作るのです。そのためには、オンラインの仕組みを作り、コンテンツを英語や中国語にすることによって日本の介護ノウハウは商品化され、アジアに届けられるという仕組みです。特に中国は既に一人っ子政策の影響を受け急速でかなり歪な高齢化が始まっています。

 

青森は日本一の短命県だと言われていますが、どう思われますか。 

東北全域に言えることですが、4歳ほど違いますよね。東北大学と弘前大学が研究チームを編成し、短命県返上のプロジェクトを作っています。

 

これはなぜという話にはなるのですが、介護の仕事にも大きく影響しているとみています。岩手県で講義をした時に調べたのですが、食生活と住環境がネックになっています。お漬物もそうですし、車社会なので日常的に歩かないですよね。そういうことを、介護施設から大学の研究機関と一緒になって取り組んでいかないと、介護の仕事に負担がかかります。介護費用も増えていきます。

 

私の故郷である十和田市は介護保険料が全国一高かったことがあります。日中、お年寄りが街中を歩いていないくらい介護サービスが充実していると関係者が笑っていました。逆に言うと介護保険に依存しすぎる地域生活。一人ひとりの考え方とまちづくりの仕組みを変えていかないと、短命県のまま地域経済も破綻しかねません。

 

住民の気持ちを変えるのは介護に携わる私たちのミッションだと一人ひとりが覚悟を決めることです。そして、やはり旗を振る人が必要ですよね。

 

まとめ

小川さんのお話を伺っていると日本の社会の問題や課題が介護の分野にも大きく反映しているなと感じました。

 

そして、小川さんはそれに対して真っ向から解決をしていこうと様々な勉強会を行い、学校を作り、動画アーカイブを構築されて、教育の部分に注力をされています。

 

この記事をご覧の皆さんの中にも医療関係者、介護関係者もおられると思います。ぜひ、小川さんの勉強会や取り組みに注目し、門を叩いてほしいと思います。

 

小川さん、長時間にわたるインタビューに真摯に答えて頂き、ありがとうございます。この場をお借りして厚く御礼申し上げます。

 

 

関係リンク

エイジング・サポート小川利久の各種統合サイト(リンクツリー)

https://linktr.ee/toshihisaogawa

 

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