千葉大学医学部卒。
医療法人康仁会西ノ京病院や気仙沼市立本吉病院での勤務を経て、平成30年12月にいやしのもりクリニックを開業。
今回は八戸市のいやしのもりクリニック院長の上田 亮先生のインタビューをさせて頂きました。本来であれば訪問の上、取材の予定でしたが、コロナの影響で移動がままならず、オンラインでのインタビューとなりました。
現在、医療関係者の皆さんは現場対応のための対策などで非常にお忙しい時間をお過ごしですが、そんな中でも快く取材に応じて頂きました。
ぜひご覧ください!
目次
先生は、同志社大学を卒業された後、どのような経緯でドクターの道を進まれたのでしょうか?
私は、エスカレーターで同志社大学へ進んだのですが、同志社高校に入ってから全く勉強をしませんでした。高校では水泳をしていたので、本当は大学では水泳部に入りたかったのですが、オリンピック選手を育成するようなところでしたし、ちょうど怪我をしてしまったこともあり諦めました。
次に何をしようかと考えたときに、柔道で素晴らしい腕前を持っている松本道弘先生の本に出会いました。松本先生は全く海外へ行かずに柔道の猛練習をしながら英語を用いた同時通訳の第一人者になったということがカッコよく、とても痺れたので私もその道を進むべく大学時代は英語に没頭していました。
松本道弘は、「英語を使う人間は英語の世界にいるべきではない、英語だけの人間にはなるな」という独自の英語道を提唱しており、私にとって、その松本英語道を実現する道が医師になることであると感じたのです。
なぜ医者かというと、私は通訳として20代を過ごしていたのですが、そのときに国境なき医師団の存在を知りました。そして、私もそれに参加しようと思い立ち、数学などは全くわからなかったのですが、予備校へ行かずに全て独学でやると決めて取り組むことにしました。
私は当時からボクシングにも没頭していたので、医学部への進学とプロボクサーという二つの道を目指すことにしました。しかし、26歳のときに網膜剥離で手術をし、退院して再チャレンジというタイミングで再び、網膜剥離となり再び手術をしたのです。結局、プロボクサーにはなれず悲しい思いをしましたが、そこでしばらく社会復帰できなかったことで受験勉強する時間ができました。
網膜剥離をして入院した時に同じ病室だったおじさんが瓦職人の親方だったので、お金がなくなったらそこで日雇いの肉体労働をして日銭を稼ぎ、2年後の28歳の時に千葉大学医学部へ入学することができました。
ドクターになられてからは、どのような道を歩まれたのでしょうか?
私は、医者になると決めた時から、国境なき医師団へ参加してそこで死ぬつもりでいました。今から考えると、当時はかなり尖っていましたね。
医学部時代にちょうど阪神大震災が起こりました。テスト期間中ではあったのですが、教授に行かせて欲しいと頼んだこともあります。結局は、何の役にも立たなかったわけですが。
若い頃は正義を背負っているという気持ちがあり、それを前面に出していたと思います。医者はこうでなくてはいけないという考えですね。そうすると周りから浮いてしまい、誰も寄ってきてくれなくなります。
また、医療というのは周りとうまくやることが大事です。医者が尖っていると浮いてしまい、挫折を感じ、落ちこぼれとなってしまいます。私も、東日本大震災の時には気持ちが沈んでいたのですが、この状況で医師として生き残れないのは心が痛むということで、もう一度奈良の病院で勉強をしなおして、気仙沼へたどり着きました。
かつて医学部とプロボクサーを目指していたと先ほど話しましたが、当時は、チャンピオンになりたいと思っていました。一方で、川島実先生の場合は、プロボクシングの世界で新人王にもなりましたしドキュメンタリーにも取り上げられるなど、私が目標としていることを全てこなしていることもあり、先生に対して、心の傷に塩を塗り込められるような気持ちを抱いていました。
そうこうしているうちに、東日本大震災が2011年3月に起こり、5月に私がプライマリーケア団体から派遣されて石巻へ入りました。病院へ向かうタクシーの中で運転手から川島先生がその病院で院長をしていると聞いて、とてもびっくりしましたね。私の劣等感やコンプレックスをずっと刺激される存在のあの川島先生がいるということで嫌な気持ちもありましたが、会ってみると通っているジムも同じですし、共通の知り合いも多く、話が弾み一緒にやることになりました。
震災直後は、張り切って医者や看護師が来ましたが、せいぜい一週間や一ヶ月で燃え尽きて帰ってしまいます。
そういった人たちが頑張っていることによって成り立つシステムは、いなくなれば当然ダメになってしまうわけで、それではいけないと考えています。そういった経緯もあり、気仙沼から他の土地へ行くのではなく、もう少し東北にいようと思っていた時に話をいただいたのが青森です。
こちらのクリニックを紹介していただけますでしょうか?
私は2015年に気仙沼から八戸へ来た時、人材派遣会社の紹介により勤務医となり、後に雇われ院長となりました。私がそのクリニックに来てから患者さんが倍くらいに増えたことで、今から思えば天狗になっていましたね。
そうして、2018年8月にそこを辞めて八戸で自分のクリニックを開業し、院長兼経営者になったわけです。
私は勤務医時代、常にブラックな職場だと文句ばかり言っていましたし、雇われ院長の時は辛くて毎日辞めたいと思っていました。そして経営者になりましたが、経営者だからといって好き勝手できるかと言ったらそうではありません。毎日、本当に辛い気持ちでしたが、やはり医療、特に在宅はチームワークが大事ですし、偉そうにしていたら何も進みません。
経営者になるということは偉くなるのではなく、周りに頭を下げて感謝をすることだと思いますし、そうしているうちに経営が少しずつ上向いてきました。最初は甘く見ていましたが、一緒にやっている人たちがチームとして、どれだけ私と一緒に仕事をしたいと思ってくれるかが大切ですよね。
当院はママさんばかりが働いていることもあり、子供が熱発した時にはいつでも休んでいいよと伝えています。その代わり、他の人がカバーすると。ママさんというのは、やることをやったら帰りたいというベクトルで仕事をしているので、皆さんとても有能で合理的です。
しかし、ママさんだから他では雇ってくれないという気持ちがあるので、そこ辺りのケアをすることで雰囲気は良くなりますよね。
ハチの社会では、何割かが働かずにサボっているハチがいると言われています。しかし、その集団に危機が訪れた時、例えば、スズメバチが来てミツバチの集団が襲われたとしたら働いていないミツバチも働き出すそうです。それをスラック(たるみ、緩み)というそうですが、そういう考え方が、経営にはとても大事だということを聞きました。
私の場合は週休3日を実現したいと考えているので、1日ないし2日は休んでいいよという「スラック休暇」制度を設けています。給料は払うけど休んでいいし、その休みを何に使っても良いというところが使い勝手が良く、みんな喜んでくれています。その代わり、出勤してきたときは向上心を持って張り切ってくれますし、いろいろなことを勉強してくれますね。
かつて、雇われ院長だったときは、土日や真夜中に呼び出しがあり出かけることが辛かったですね。給料が増えるわけでもないですし。でも、そういう姿勢でいると、あの先生は対応してくれないと言われてしまいます。
今は、一人でここを背負っていると思っているので真夜中でも呼び出しがあれば行くようにしています。そうしていると、先生も頑張っているからと思ってもらえるし、信頼も得ることができます。
しかし、一人が頑張りすぎて倒れて破綻する制度は続かないので、将来的には複数のドクターで回せるようにしたいですね。
私は英語ができるので、私に英語を習いたいというドクターが全国から集まってきています。今年度も秋に一人、ドクターが来るのですが、そうやって長期的に回っていく仕組みを作っていきたいと思っています。
青森県は日本一の短命県ですが、先生はこれをどのように捉えていらっしゃいますか?
まず、喫煙率が高いですよね。長野県は元々、短命県でしたが、塩分摂取を少なくするなど指導を強化して長寿県へと変わりました。やはり、それを目指さないといけないとは思います。
東北というのは、青森に限らずどこでも排他的なところがあります。自分の自我を見せないというか。例えば、家族で認知症になった高齢者がいる場合、民生委員も助けたいとは思っているけれども、認知症の家族がいるということを恥だと思ってSOSを出さない。
私は関西出身ですが、関西は自分の恥をさらけ出して仲良くなるという風潮があるのでその辺りが本当に違うと思います。
そうは言っても、信頼関係を作っていくことで「タバコをやめましょう!」という提案はしやすくなります。こちらにはこちらのコミュニケーションのやり方があります。気仙沼の場合は震災でぐしゃぐしゃになってしまったことで、よそ者が溶け込みやすいという状況がありましたが、八戸の場合は震災の影響がそれほどでもなかったことも関係していると思います。
抵抗が強いので、焦って進めようと思うと当然、反発もあります。それでも、イニシアチブは取らないといけない。無理してゴリ押ししてはいけないし、イニシアチブもとるという両輪で進めないといけないとは感じています。一方は急いで、一方では急がずに打ち解ける。自分がここにいることで良い医療にしていくという気持ちでやっています。
今、新型コロナウイルスで大変だと思いますが、現場はどのような状況でしょうか?
最前線に立っている先生は感染者が目の前であっという間に症状が悪化しているのを見ているわけで、言うならば、私たちは準最前線なわけですよね。
こちらでも感染者が確認されたので、いつ飛び火するのかと気持ちの休まる時がなく、スタッフも動揺しています。
オンライン診療の話も出ていますが、患者さんの容態が悪いと言われると行かなくてはいけないので、難しい面はあります。
でも、熱発はすごく減ってきています。やはり、新型コロナウイルスのことで皆さん気を付けていますし、風邪やインフルエンザは人が運ぶものだと感じています。現実はあまり変わっていないのですが、考えなくてはいけない時期にきているとは思っています。
今後のビジョンについてお聞かせください。
日本全国、若くて優秀な先生というのは医学英語を学びたいと思っていますし、私は通訳者として英語の世界では少しだけ有名で、私に英語指導を受けたいと言ってくださいる若い先生方がおられますので、そういった先生方に英語を指導する代わりにこちらで地域医療に貢献してもらうことを考えていて、それが形になりつつあります。若い先生が交代で来ることで常勤医が増えますし、地域もすごく盛り上がりますよね。
私一人が頑張って倒れてそこで終わりというシステムを作ってはいけないと思っているので、若くて元気な先生がこちらに来て診療を行うというシステムを作っていきたいですし、実際に出来つつあります。
どこも医者が不足しているので、地域医療を盛り上げるために医療機関同士で人材をシェアしていきたいですよね。
先生ご自身の健康管理やリフレッシュはどのようにされているのでしょうか?
私は、お酒やタバコは一切しません。その代わり、水泳で毎日数キロ泳いでいたのですが、今はコロナの影響で出来ていません。
ボクシングのジムにも行っていましたが、今はランニングマシーンを自宅に置いてトレーニングをしたり、お風呂でジャンピングスクワットをしています。
最後に、メッセージがあればお願いします。
こちらに元気な先生が入れ替わり来てもらえるシステムを作りたいので、ぜひ広くつながりたいと思っています。やはり、医療はチームワークであり競争するものではないですしね。
<まとめ>
今回はエイトドア代表の下田さんから先生をご紹介頂き、インタビューの実現となりました。
以前、離島医療情報ネットワークで取材をさせて頂いた奈良の川島実先生と親しい仲と伺い、やはり同じ志を持つ先生方はどこかでつながるんだなと感じた今回の取材となりました。
大学の他学部にいたにも関わらず、医学部に入りなおし、医師になった先生はユニークな方が多いですが、今回もそれにたがわず非常に充実した内容になったかと思います。
非常にご多忙な時にも快くインタビューのお時間をお取りいただいたこと、この場をお借りして、心より御礼申し上げます。