出身地 : 青森県
卒業高校 : 青森県立八戸高等学校 高校野球甲子園出場
現在の役職 : 株式会社ごっつり 代表取締役
1990年5月 佐川急便株式会社
2008年5月 株式会社ごっつり 代表取締役
2008年 5月 株式会社ごっつり設立
2008年 6月 北千住酒場 情熱ホルモンを出店
2009年 4月 串焼き ごっつり を北千住駅東口に出店
2010年 12月 駅前市場 を南千住に出店
2011年 3月 北千住酒場 情熱ホルモン を新たに 炭火焼ごっつり として北千住に出店
2012年 3月 炭火焼ごっつり を「青森料理の専門店」としてリニューアル
2016年 3月 駅前市場 をごっつり南千住店「青森料理の居酒屋」としてリニューアル
関連サイト:株式会社ごっつり
このたびは東京の北千住で青森をテーマにした居酒屋を経営され、東京における青森県民の憩い&交流の場を提供されている西村社長にインタビューをさせて頂きました。
初めてごっつりに伺ってから6年が経過しておりますが、初めて食べた八戸前沖さばの串焼きは衝撃的でした。あんな美味いサバはいまだかつて食べたことがなかったし、今でもお店に行くと必ず頼む定番となっています。
青森ドクターズネットをOPENしたら、必ず取材させてもらおうと心の中で決めており、お願したところ快諾頂き、実現した次第です。
それでは医食同源グルメもかねてのインタビュー記事、ぜひご覧ください!
目次
飲食店を始められるまでの経緯について教えてください。
通っていた高校は進学校で、高校三年生の時には野球部で甲子園にも出場しました。その後、大学へ進学したのですが、途中で「実家の商売が危ないから帰ってこい」との連絡があり、休学して帰ることになりました。実家では、旅館やホテル、ディスコや雀荘、ゲーセンなど色々と事業を行っており、私も1年ほど手伝いはしたのですが結局、倒産してしまいました。
ちょうど3月に倒産し、夜中の2時にトラックで荷物を積んでこっそりと夜逃げをして東京へ出てきたのを覚えています。
そうして、大学へ一度は復帰したのですが、バイト中心の生活を送る日々でした。そうこうしているうちに授業料が払えなくなり、教授から「このままだとクビになるぞ、クビになりたくなかったらちゃんと手続きをしたほうがいい」と言われ、手続きを踏んで中退という扱いになりました。
私は、実家が倒産したこともあり、自分で商売をやりたいという気持ちをずっと抱いていました。そのため、大学を卒業するよりもお金をつかんだ方が早いなと思い、ちょうどその時にアルバイトをしていた佐川急便に入ることにしました。
入社から3年かけてお金を貯め、事業を始めようと思っていたのですが、水が合いすぎて17年半も在籍していましたね。会社自体はすごく好きだったのですが、最後は体調を崩してしまい40歳で退職しました。
そこから半年くらいは体調をなおすためにのんびりし、釣りばかりしていました。
次第に体調も良くなってきて、次は何をしようかと思った時に、飲食がやりたいと思うようになりました。でも、ノウハウがないのでフランチャイズを考えていた時に、調べていたらたまたま大阪で流行っているホルモン屋があったのでそれにチャレンジしてみようかなと。もしかすると、関東でも流行るかもしれないと始めたのがきっかけですね。ちなみに、飲食店を始めた最初の場所がここになります。
当初は、ホルモンブームに乗って調子が良かったのですが、途中でレバ刺し問題が出てきてしまいました。チェーン店なので、法律で規制される前に本部がレバ刺しの提供をしないという判断をしたのですが、そうすると、やはりお客さんの足が遠のいてしまったのです。
だんだんとお客さんも少なくなってきましたし、フランチャイズは3年契約だったので、更新せずにホルモン屋はたたむことにしました。
実は、ホルモン屋を始めた1年後に、2店舗目のお店として北千住の反対側の立ち飲み屋を始めていました。こちらはもつ焼きと鯖の店ですね。さらに、隣の南千住で29階建てのビルが出来た時に誘われ、出店を決めたのが3店舗目になります。そこでは、肉をメインにしようと考えていました。
しかし、そのビルは消防の規制が厳しく、店の入り口から5mの範囲内では火を使ってはいけないという決まりだったので、IHにしてしゃぶしゃぶをメインにおいたのですが、上手くいきませんでした。開店準備として5千万円ほどかけましたが立ち行かなくなり、もう店を閉めようと思っていたものの、周りは「まだ1年しか経っていないのだから」「もう少し頑張れば売り上げが増えるのではないか」と声をかけてくれました。しかし、ちょうど震災が起こったこともあり、結局はこちらも閉店することにしました。
負けたままで終わるのは嫌だったのでそのタイミングで今も継続している南千住の店を作り、10年ほど店が続いています。
青森を全面的に打ち出したお店にしようと思われたきっかけについて教えてください。
ホルモン屋をやっていて2店舗目の準備に取り掛かっている最中、青森へ帰り、街中を歩いていると、ある社長と道でばったりと出会いました。そして、店をやるなら鯖を使った方が良いと言われたのです。
私としては、小さい頃からずっと食べている鯖をどうして今更使うのだろうと思っていたのですが、そのままカウンターだけの鯖の専門店に連れていかれ、鯖の串焼きを食べたとき、「こんなに八戸の鯖が美味しかったのか」とびっくりしました。こんなに美味しいなら使おうと、早速準備に取り掛かったのが始まりです。
そうこうしているうちにホルモンブームも終わり、自社でやっていこうということになったのですが、フランチャイズには色々な縛りがあります。そこは契約解除後の1年間、何もしてはいけないという契約が盛り込まれていたので中途半端の状態になっていました。
鯖を使ってはいたのですが、しっくりいかず、経営的にも良くないのでこのままではダメだと感じていたところ、自分の得意な青森の食材を使えば何とかなるかもしれないと思い、青森に絞ってダメなら飲食店をやめようという意気込みで食材を使うようになりました。
軌道に乗るまでは時間がかかりましたが、今では良かったと思っています。
こちらでは、鯖以外にも青森の食材をふんだんに使われていますが、どのような基準で選ばれているのでしょうか。
地元の人たちに勧められたら必ず、自分で現地へ行って確認をするようにしています。牧場や養鶏場にも行きますし、漁師と話をすることもあります。やはり、自分の目で確認をしてからでないと、胸を張って提供できないですよね。
青森県は短命県だと言われいてますが、そのことについてどう思われていますか?
おそらく、自分たちの地域の良さや価値に気がついていないのではないでしょうか。だから、カップラーメンを食べてしまう。
今でこそ、タクシー運転手も「どこか良いところありますか?」と聞くと色々とお店を教えてくれますが、以前は、ほとんどの運転手が「何もないよ」と話していました。
青森は朝からラーメンを食べる県民性ですし、そもそも食材の良い地域は大体、料理が下手ですね。
食通の人と話によると、北海道は食材が良いからそれに乗っかっていて、だんだんと東京に近づいてくると料理をするようになっているということで、青森もそういう意味では、県民のお料理の腕を上げていくことは家族の健康に結び付くのかもしれません。
今後、青森にお店を展開していく予定はありますか?
それは色々な人と話をしているところですが、盛り上がっては消えてという状況ですね。
本当は、八戸には地ビールがないので、クラフトビールを出すお店を作ろうと思っていたのですが、少し前に法律が変わってしまいました。ビールと呼ぶためにはかなりの量を作らないといけなくなり、そうなると、どう考えても私が構想していたものは発泡酒という括りになってしまいます。
そこで頓挫していましたが、それでも八の泡と書いて八戸の泡、つまり八泡酒というネーミングをつけ、店内で醸造することを今は検討しています。
今後のビジョンについてお聞かせください。
コロナの関係でどう転ぶかというところはありますが、やはり生き残っていくためには、今の体制ではおそらく厳しいですね。お客さんがコロナの前の状態に戻るかといえばそうではないと思います。
これからは外食がなかなか厳しくなりそうなので、居酒屋を使っていない時間帯を使って通販を始めようかと試作もした上で保健所へ出向いたところ、許可がおりないと言われてしまいました。通販商品を作るためには、まるっきり別の隔離された部屋にキッチン設備を置き、そこで作らないといけないそうです。
これは結構ショックでしたが、それでも今は、八戸のメーカーと話をして通販も始められればと思っています。
最後に、青森県の方々へメッセージをお願いします。
私は病院が好きで、お医者さんへ行くのが好きです。それは安心するからであって、自分から先生に何でも聞いてしまうので先生も困ってしまうほどです。
年をとると、色々なところに支障が出てくるので健康には気をつけてもらいたいですね。
まとめ
西村社長のインタビューいかがだったでしょうか?
ごっつりの活動のお陰で青森県食材も東京で有名になり、青森の方々も多くのつながりを持ち、その経済的効果は計り知れないものがあると思います。
そんな西村さんのお考えや今までの経緯が垣間見えた取材になったかと思います。
私自身としても通常のお店に行く以外にも、八仙(日本酒)の会に参加させてもらったり、東京ドームでのふるさと祭りにて購入させて頂いたりと青森食材を楽しみ、人脈を広げる機会を頂いております。
皆さんも東京にお越しの際はぜひ、ごっつりに足をお運びくださいね。
西村社長には病み上がりの中、お酒も飲めないにも関わらず、取材に応じて頂き、誠にありがとうございます。この場をお借りして厚く御礼申し上げます。
インタビュー:池上文尋