青森は最高だ!~青森ですべてを失ってひきこもりへ(編集長自己紹介パート2)

最終更新日:2020年5月26日

失意のうちに青森を離れた後のお話

 

前回からの続きとなります。前回のお話はこちらで↓

https://aomori-medical.com/column/fantstic/

 

MRを3年で辞めて、25歳でクリニック事務長になり、その後、すぐに結婚して、27歳で失職して、体調不良になり、同時に離婚して、人生ハチャメチャなことになっていました。

 

理由は簡単なことです。

医療事務という仕事をちゃんと理解もせずに飛び込んでしまったこと。そして女性特有の世界であることの理解不備、そして自分の特性や得意技に向いていない仕事であることを理解せずに突っ走ったことにあります。(それにも関わらず、可能性を信じ、こんな私を雇用して、サポートしてくれた先生や奥さまには深い感謝の念しかありません。)

 

そんな不安定な仕事状況の中なのに後先考えずに結婚までしてしまい、身動き取れなくなってしまい、どんどん追い詰められたということです。

 

そして、ついに27歳の時、精神状態と体調を崩し、辞職し、失意のうちに青森を離れました。そして身を寄せたのは地元である京都です。お金はない、仕事もない、カラダも病気、精神状態もおかしいというまさに4重苦の状態でした。

 

未来を信じて結婚してくれた元嫁にも迷惑をかけ、仲良く一緒に働いてくれていたスタッフにも迷惑をかけ、親を失望させ、今でも穴が合ったら入りたいぐらいな出来事でした。

 

たまたまラッキーなことに祖母の家が空き家になっていたので、そこで独り静養することにしました。今でいう完全なひきこもりの状態です。

 

3日に1回ぐらい食事を買いにスーパーに行く以外はずっと部屋にこもって、テレビ画面を意味もなく見続けるという生活でした。だから、今でもひきこもりの人の気持ちはよくわかります。

 

その時に頭の中をぐるぐるとめぐっていたのは「自分の何が悪かったのか、なぜこのような状態になってしまったのか?」ということです。その時期では見つけようのない問いをずっと考え続けていました。

 

 

そうやって、病的に3ヵ月ぐらいひきこもっていたら、体重も少し戻り、元気が戻ってきました。何かしないとこのままのたれ死んでしまうなとも思ったので、体重は52kg(通常70kg)でやせ細ってはいましたが、ダメもとでリクルート社に求人面接に行きました。

 

その時に担当の方がこのようにおっしゃってくれました。

「池上さん、いい経験をなされましたね。若くしてそういうつらい経験はなかなか積めるものではありません。今回は私も会社の紹介のし甲斐があります」と。

 

それで6つも会社を紹介してくれて、そのうち5つ合格しました。こんなひきこもりダメ男が会社に5つも通るってなんと奇跡的なことだと自信を与えてもらったことに今でも感謝しています。

 

その中で最も面白いなと思ったのがセローノジャパンという会社でした。社員数100人にも満たない小さな製薬企業でしたが、不妊治療に特化した薬を開発・販売しているスイスのベンチャー企業でした。

 

何も持っていない素の自分がチャレンジするのにはベンチャーが適しているのではと直感も働きました。また、その当時の営業所長が熱心に誘ってくれたのもあり、ここで働くこととなりました。

 

担当は地元である京都府全域と大阪府の一部でした。

 

以前は外資系の大手製薬企業に勤務していたので、名刺を薬剤師や医師に渡したら、すぐに理解して、自分の話を聞いてくれるのですが、何しろ無名のベンチャーですから、不妊治療に関わる産婦人科医以外はまったく知られていませんでした。

 

病院の薬剤部では病院院内のPR活動を行うために許可をもらわないといけないのですが、初めて挨拶して、その旨伝えると「今まで聞いたことのない会社だ!ゾロ品メーカーか?」と毎回怪訝そうに聞かれるような日々でした。

 

でも、チャレンジしていくしか道はない自分としては、その怪訝そうな顔を笑顔に変えていく経過が面白くて、いつも嬉々として説明していました。最終的に「不妊症専門のメーカーとはとんがっていて面白いな」ということで薬剤師の先生方のサイエンティフィックな心の琴線に触れた感がありました。

 

 

そんなほとんど知られていなかったセローノ社ですが、自分が京都を担当して、ほとんどの産婦人科に訪問し、採用を重ねていきました。

 

セローノという会社はとにかくユニークでした。小さな会社ゆえに本社機能は充実している訳もなく、MRのやることは多く、PR資材とか、説明会資料とか、ほとんど自分で作っていました。(今ではあり得ないと思いますが)

 

訪問スケジュールも基本的にはMR任せですから、自分の好きなところを自由に回っていました。大学病院、大病院、中小病院、専門クリニックと縦横無尽に動き回っていました。

 

セールススタイルも完全にコンサルティング営業と言われるスタイルで、先生方の課題やお悩みを伺いつつ、それを解消していくことにより、信頼を勝ち得るという活動でした。ですので、通常のMRのような露骨な処方依頼などはほとんどしないのが特徴的でした。

 

そんな状況だから、大手から転職してきた人は面食らうし、「なんでこんなことまでやらなきゃなんないんだよ!」と、すぐ辞めていく人も多かったように思います。

 

それに欠品や異物混入も発生したりして、クレーム処理も全部MRがやることになるので、

その県のクレームは全部自分に集中します(笑)

 

何か起こるとあっという間に、クレームが集中し、危機的になるので、それに対応する能力が磨かれました。

 

このセローノ社に勤務出来たことにより、京都や大阪の産婦人科の先生方との関係性が深まり、そのつながりは25年以上経過していてもまだ継続しています。本当にありがたいことです。

 

その後、京都産婦人科研究会、京都産婦人科医会、日本レーザーリプロダクション学会、日本受精着床学会などの大きな組織や学会の事務局側としてお手伝いをさせて頂いたのもセローノの時に得た知己と信頼からだと思っております。

 

そんな面白いセローノ社での仕事でしたが、プライベートでも色々なチャレンジを行うこととなりました。

 

その話は次回のコラムにて~♪

 

次回の第3回コラムは「サラリーマン+家族との起業について」書いていこうかと思います。

  • この記事に関するご感想・ご意見・お問い合わせなどがございましたら、ぜひご記入ください。ご記入頂いた皆様の中から毎月10名の方に編集部よりお楽しみプレゼントを送らせて頂きます。
執筆者
池上文尋

池上文尋

北里大学獣医学部 動物資源科学科卒 
大学時代、現在、人に使われている生殖医療の基本技術を学ぶ。
卒業後、外資系製薬企業に所属し、12年間、製薬企業のマーケティングスタッフとして勤務する。(ノバルティス・メルクセローノ・ファイザー)

特にセローノでは不妊治療に使うホルモン剤を中心に扱っていたので、不妊治療に関わる先生方と深く関わることになった。

2000年7月に株式会社メディエンスを設立、日本全国の産婦人科クリニックや病院の広報やブランディングをサポートする事業を開始。また、製薬企業向けのポータルサイトを制作、製薬企業のスタッフ教育に関わる。

不妊治療に造詣が深く、妊娠力向上委員会、胚培養士ドットコム、日刊妊娠塾という不妊治療関係のネットメディアを運営している。また、不妊治療関係の企業へのコンテンツ提供を行っている。

2002年より、オールアバウトの不妊治療ガイドとして16年間執筆・編集に従事。その他にも不妊に関する多くの著書、映画、調査などのアドバイザーとして関わる。

不妊治療の取材で訪れたクリニックや病院、関係施設は300を超え、日本で最も不妊関係の取材を行っている一人である。現在もその姿勢は変わらない。

blank